沖縄気象台職員の御霊を祀る「琉風之碑」
第二次世界大戦末期の沖縄戦では、沖縄気象台(※当時は沖縄地方気象台)の職員の方々は命を懸けて気象業務を行い、多くの方が犠牲になりました。戦時中も気象観測を続けながら辿り着いた糸満市伊原に「琉風之碑」が建っています。
6月23日は、沖縄での組織的戦闘が終結した日として沖縄県が「慰霊の日」と定め、県民の休日となっています。沖縄で生まれ育った私達は、幼い頃から戦争の悲惨さを見聞きし、学校では「平和学習」として授業でも多くの時間をかけて学びます。
毎年「慰霊の日」には平和祈念公園で全沖縄戦没者追悼式が開催され、「琉風之碑」では、沖縄気象台の関係者の方による追悼式が行われています。
昨年の「琉風之碑」での追悼式に、弊社の森田正光と参加をさせていただき、皆さまから貴重な話をお聞きしました。地上戦が激しくなる中でも、九州などから沖縄に飛び立つ特攻隊のため沖縄の気象情報の通報を続け、目視による観測も大変重要だったそうです。
沖縄戦と気象観測の任務
1944年10月10日の「10・10空襲」により那覇市は広く被害を受けました。その後、那覇市首里弁ヶ丘の陸軍気象隊に協力していた気象台の職員の方々と、小禄飛行場の海軍航空隊と行動を共にしていた航空気象観測所の職員の方々、小禄の防空壕で観測・通報を続けた職員の方々の3つグループに分かれて業務を続けていたそうです。
1945年3月26日、米軍は慶良間諸島に上陸し「鉄の暴風」とも呼ばれる沖縄地上戦が始まります。4月1日には沖縄本島の西海岸の読谷山、北谷海岸に上陸しました。
5月17日、米軍はついに沖縄気象台の通信を探知し、グラマン機の激しい攻撃を受けた防空壕は落盤しました。福岡管区気象台に電報を打った後、小禄の防空壕を後にして南下を続ける中、命を落とす方もいました。負傷して動けない職員には手榴弾を手渡してその場を離れるという非常に辛い決断もしなければならなかったそうです。
5月25日に沖縄気象台としての業務は停止をしました。6月15日以降の天気図の通報記録は、軍気象隊によるものだそうです。「琉風之碑」には、入隊して戦死した職員の方々を含めた73名の方が刻銘されています。
「慰霊の日」と「沖縄の梅雨明け」
沖縄地方の梅雨明けの平年値は6月21日ごろとなっています。以前の沖縄地方の梅雨明けの平年値は”「慰霊の日」の6月23日ごろ”でした。(平年値は10年毎に更新)
梅雨明けを告げる「慰霊の日」の追悼式は厳しい日差しのもとで行われる年も多く、戦時中もうだるような暑さが続いていたことを想像しながら沖縄県民は手を合わせます。今年は、戦後80年の節目の年です。